おわびとお知らせ

 現在、本ブログの2009年7月22日の大連での部分日食の記事が人気記事となっておりますが、当記事において、日食の観察方法につき、誤った方法を紹介している箇所がありました。

 記事の該当箇所は次の通りです。

(日文)

今日の中国や大連は日食の話題でもちきり。

大連では部分日食で、大体60%ぐらいの日食。

うちの近所でも、黒ペンキをスプレーしたガラス片やネガフィルム,レントゲン写真の黒い部分を通して日食を観賞してる人がたくさんいた。

私たち夫婦も、以前嫁が撮影したレントゲン写真の一番黒い部分を切り取って、臨時の日食メガネに。

(この観察方法は危険です。真似しないで下さい!)

(中文)

今天的中国和大连、无论到哪里都谈日食的话题。

大连的日食是“日偏食”,大概60%的日食。

我家附近也有很多人用喷黑漆的玻璃片或者照相底片,X光片的黑色部分来鉴赏日食。

我们夫妻也把老婆拍过的X光片的最黑色的部分剪下来,做成临时的日食镜了。

(这个观看方法很危险。请不要模仿!)

 黒く塗ったガラス片、ネガフィルム、レントゲン写真等は赤外線・紫外線のカットが不完全であり、これらを用いて日食を観察すると目に傷害を生じます

  涂黑的玻璃片或者照相底片,X光片等不能完全遮断红外线和紫外线,因此使用这些东西观看日食会对眼睛造成伤害。

2012年5月21日 金環日食を安全に観察しよう(国立天文台)(PDF)
(2012.5.18閲覧)
http://naojcamp.mtk.nao.ac.jp/phenomena/20120521/doc/for-educator-color-v2.pdf

2012年金環日食日本委員会:(2012.5.18閲覧)
http://www.solar2012.jp/

 誤った情報の拡散を防止するため、当記事はいったん非公開とします。

 みなさまに大変なご迷惑をお掛けいたしましたことを深くおわび申し上げます。

 2012.5.18 
 管理人 電羊齋

カテゴリー: 訂正 | 3件のコメント

『満洲実録』名場面集 その7

年代:丁亥年(1587年、明万暦十五年)
画像は『満洲実録』第二巻から


 丁亥年(1587年、明万暦十五年)、ヌルハチは地元スクスフ部をほぼ平定したのを機に、政権の基礎固めを行なっている。 
 第一に、フェ=アラ Fe Ala城(旧老城、二道河子城、現遼寧省撫順市新賓満族自治県)の築城、第二に政治・法律制度の整備である。
 
 第一に、フェ=アラ城について説明する。
 フェ=アラ城はヘトゥ=アラ城(興京老城、新賓満族自治県)の南方、ギヤハ河Giyaha bira(嘉哈河)とギヤハ河支流のショリ河 Šoli biraの合流点にはさまれた地点に位置する。

旧老城(二道河子城)図
フェ=アラ城(旧老城)とヘトゥ=アラ城(興京老城)の位置関係。
今西春秋「Jušen国域考」p.16 第1図 Suksuhu(蘇克素護)部境域図 付 旧老城図

Google Mapsによる現在の衛星写真(マイマップ。下記URL)。
http://g.co/maps/u9ryh
南側のマーカーがフェ=アラ城、北側の家型マーカーがヘトゥ=アラ城。

 

 フェ=アラ城は山の北側斜面を利用し、内城、外城、さらに外側の套城の三重の城域が階段上に造成された梯郭式の平山城であった。
 内城の城壁は海抜260m前後の斜面を囲むように築かれ、外城の城壁は麓の海抜200mの等高線にそって存在した。套城は後に拡張されたものである。内城にはヌルハチの居館と三軒の楼があり、ヌルハチとその親族が居住し、外城にはヌルハチの有力な臣下とその一族たちが暮らしていた。
 ヌルハチはこの時期から配下部将の集住政策を推し進めており、フェ=アラ城から三、四日行程の範囲内に居住する村落(ガシャン gašan)の首長とその一族郎党に外城内部と外城外部に集住するよう命じている。

 河川の合流点にある小高い丘に造成された、内城、外城の両部分により構成される城郭はフェアラ城以外にも多く存在する。ヌルハチが後に築いたヘトゥ=アラ城、ジャイフィアン城、サルフ城も同一形式の城である。このような山城は女真(ジュシェン)社会において伝統的な形式であったようで、金代女真の山城においても多数見られる。
 また、内城内のヌルハチの居館及び三軒の楼は全て周囲より高い盛土の土台上に築かれていた。これは後に瀋陽に造営された宮殿、即ち現在の瀋陽故宮の建築様式とも共通している。

 第二に、政治・法律制度の整備である。
 ヌルハチは
同年六月に政治・法律制度を定めている。
 『満洲実録』の記述によると、六月二十四日に「国政 gurun i doro」を定めている。史料の制約により、具体的な内容については不明だが、満洲語の「doro」という単語には、政治だけでなく礼、
道、道理という意味も含まれているので、「国政 gurun i doro」は国の基本的制度及び施政方針を意味すると思われる。
 同時に法令を施行し、悪行、騒乱、窃盗、詐りを禁じている。
 挙兵後わずか四年あまりしかたっておらず、いささか早すぎる感もあるが、急速な勢力拡大に伴い、統治体制整備の必要に迫られたのだろう。

 その後、ジェチェン部のアルタイ Artai(阿爾泰)を攻め、その山寨を攻め取り、アルタイを殺した。

eidu baturu bardai hoton be gaiha,,

・左枠
[満:eidu baturu bardai hoton be gaiha,,(エイドゥ=バトゥルがバルダの城を取った) ]
[漢:額亦都克巴爾達(額亦都、巴爾達を克す)]
[蒙:        ]

・挿絵:右側の城壁上で弓を射る人物
満:eidu(エイドゥ)
漢:額亦都 

 

 八月、ヌルハチは部下のエイドゥ Eidu (額亦都)に命じ、スクスフ部のバルダ城 Bardai hoton (巴爾達城)を攻撃させた。
 バルダ城に向け進軍する途中、渾河を渡ろうとしたが増水していたので、兵士の首を縄を結び、流されないようにして河を渡りきった。河を渡りきった後、五、六人の精鋭を選び、バルダ城の城壁に梯子を掛けて夜襲をかけた。
 エイドゥは城壁上で戦い、五十に近い傷を負ったが、退かずに戦い、城内の者は逃げ去り、城を攻め取った。

 エイドゥ(1562~1621)はアン=フィヤング同様、ヌルハチの挙兵当初から従った武将である。エイドゥは元々長白山地方のニオフル Niohuru 氏(鈕祜禄氏)出身だが、幼くして両親を殺されたため、十三歳の頃父方のおばの元に身を寄せていた。エイドゥが十九歳の頃、たまたまヌルハチがおばの家に立ち寄った時、ヌルハチを「真の主」と見込んで仕えたという。なお、エイドゥのおばとは、ヌルハチ挙兵直後に殺されたガハシャン=ハスフ (ヌルハチの妹の夫)の母でもある。

 エイドゥはこのバルダ城攻めの手柄により、バトゥル baturu(巴図魯、満洲語で「勇者」の意)の称号を授けられた
 以後、エイドゥはヌルハチを助けて縦横無尽の活躍を続け、後には、アン=フィヤング An Fiyanggū、フィオンドン Fiongdon(費英東)、ホホリ Hohori(何和礼)、フルガン Hūrgan という武将たちとともに「五大臣」の一員としてヌルハチを補佐することになる
(『八旗通志』(初集)巻一百四十二、名臣列伝二、鑲黄旗満洲世職大臣二、額亦都巴図魯 )。

taidzu jahai be dahabuha,,

・左枠
[満:taidzu jahai be dahabuhe
,,(太祖がジャハイを降伏させた) ]
[漢:太祖招撫扎海(太祖、扎海を招撫す)]
[蒙:        ]

・挿絵:中央で跪く人物
満:jahai(ジャハイ)
漢:扎海 

 

 その後、ヌルハチ自ら兵を率い、フネへ部のドゥン城 Dung ni hoton(洞城)を攻め取り、城主のジャハイ Jahai(扎海)を投降させた。

 

 なお、同年十一月に、明中央の記録史料である『神宗実録』にヌルハチの名が初めて登場する。
 明『神宗実録』万暦十五年十一月己丑(四日)条に掲載された明の遼東巡撫顧養謙の上奏はヌルハチについて次のように記している。

奴兒哈赤益驕而為患
奴兒哈赤(ヌルハチ)益々驕りて患を為す

 明側はこの時点ですでにヌルハチを警戒の目で見ていたようだ。


(つづく)

・・・・・・
史料・参考文献
史料
『八旗通志』(初集)東北師範大学出版社、1985年
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年→『清実録』超星数字図書館CD-ROM(中華書局版を画像データ化))
今西春秋訳『満和蒙和対訳満洲実録』刀水書房、1992年

参考文献
(中国語)
閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社、1983年
(日本語)
今西春秋「Jušen国域考」『東方学紀要』2、天理大学おやさと研究所、1967年
臼杵勲「女真社会の総合資料学的研究――その成果と展開」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年
木山克彦「ロシア沿海地方金・東夏代城址遺跡の調査」『北東アジア中世遺跡の考古学的研究 平成十五・十六年研究成果報告書』2005年
木山克彦「ロシア沿海州における金・東夏代の城郭遺跡」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版 2008年
木山克彦「シャイガ城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年
木山克彦「ノヴォパクロフカ2城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年
木山克彦「ニコラエフカ城址」『アジア遊学』No.107 特集 北東アジアの中世考古学、勉誠出版、2008年
細谷良夫編『中国東北部における清朝の史跡――1986~1990』平成2年度科学研究費補助金・総合研究B「中央ユーラシア諸民族の歴史・文化に関する国際共同研究の企画・立案」成果報告書No.3、1991年
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選、第十一巻、白帝社、1995年
増井寛也「建州統一期のヌルハチ政権とボォイ=ニャルマ」 『立命館文學』第587号、2004年

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宋熙東「sunggari ula enduri 松花江神」(暫定訳)

 満洲族の歌手、宋熙東のオリジナル曲。この間、コメント欄にてDamin様からYouku(中国の動画サイト)のリンクを教えて頂きました。感謝感激です。
 sunggari ula スンガリ・ウラ は松花江の満洲語名です。スンガリ・ウラ(松花江)は満洲族の聖なる山である長白山の天池に源を発し、東北の大地を貫流して黒龍江に合流し、海へと注ぐ河です。いわば満洲族の心のふるさとともいえる河です。
 ちなみに満洲語の sunggari スンガリは「天の川」、「銀河」を意味する言葉でもあります。ミュージックビデオの最後に天の川と満天の星々が登場するのは、それを意識してのことかもしれません。

 今回も和訳に挑戦してみました。自分の満洲語力はまだまだ至らない点が多く、うまく訳せているかどうか自信がありませんが、ご参考までに。
 ご指摘などがございましたら、コメント欄にてコメントをいただければ幸いです。

 

sunggari ula enduri 松花江神
歌詞:満洲語(一部漢語)

歌:宋熙東
作詞:宋熙東
作曲:宋熙東
ミュージックビデオ製作:完顔昕寧

Youkuリンク(本ブログでは動画プレイヤーが貼れませんのでリンクを貼ります) 
http://v.youku.com/v_show/id_XMzI5NDU2MDI0.html

Youkuは日本からアクセスできない場合もありますのでYouTubeも貼っておきます。

 

◯歌詞和訳

凡例
・歌詞はミュージックビデオの字幕に従う。
・満洲語歌詞は、ミュージックビデオの字幕ではメーレンドルフ式ローマ字のū(ウムラウト付u)をvと表記。本ブログでもこの方式に従う。
・歌詞は一番ごとに満洲語/漢語・和訳の順に表記。

・満洲語歌詞の文章の区切り(句読点)は、和訳では意味を損なわない範囲で改めた。
・翻訳にあたっては『御製増訂清文鑑』(『欽定四庫全書薈要』本影印、『欽定四庫全書薈要』、吉林出版集団有限責任公司、2005年)、『満洲語文語文典』(河内良弘著、清瀬義三郎則府、愛新覚羅烏拉熙春助編、京都大学学術出版会、1996年)を参考とした。
・和訳はあくまで暫定訳。今後も必要に応じて訂正する可能性あり。
(2012.2.4,2012.
2.5 和訳一部修正)

 

sunggari ula enduri 松花江神
スンガリ・ウラの神

simbe hairatai onggome muterakv
sini jalin ere jalan be jurcerakv
sunggari ula deri dekdere biya i adali
si tunggus jilgan be yar seme uculembi

君をいつまでも忘れられない
君のためなら一生あきらめない
スンガリ・ウラに浮かぶ月のように
君はツングースの歌声を流れるように歌う

emu moro ula muke be omiha manggi
mini dolo simbe ele kidure jiye
der sere labsan maksire erin de
arkan seme sini dere acahabi

一椀のスンガリ・ウラの水を飲むと
僕の心の中で君への想いがつのるんだ
真っ白い雪の舞うころ
ようやく君の顔を見れたんだ

深爱你让我无法忘记
为了你  我从来不曾放弃
松花江水映着那一轮红月亮
她就像是你唱着通古斯歌谣

愛してる、忘れようとしても忘れられない
君のためなら、僕は一度もあきらめたことがない
松花江の水面にあの赤い月が映る
君がツングースの歌声を歌い続けるように

uttu simbe buyere be si naranggi sara sarkv nio?
dobori dari sini baru uculembi
uttu simbe kidure be si naranggi sara sarkv nio?
udu tumen jalan duleke seme sinde inu uculembi

こんなにも君を愛しているのを、君はいったい知っているのか、知らないのか?
夜毎君に向けて歌う
こんなにも君を想っているのを、
君はいったい知っているのか、知らないのか?
幾万もの時代が過ぎ去ろうとも君へと歌う

uttu simbe buyere be si naranggi sara sarkv nio?
dobori dari sini baru uculembi
uttu simbe kidure be si naranggi sara sarkv nio?
udu tumen jalan duleke seme sinde inu uculembi

こんなにも君を愛しているのを、君はいったい知っているのか、知らないのか?
夜毎君に向けて歌う
こんなにも君を想っているのを、
君はいったい知っているのか、知らないのか?
幾万もの時代が過ぎ去ろうとも君へと歌う

uttu simbe buyere be si naranggi sara sarkv nio?
dobori dari sini baru uculembi
uttu simbe kidure be si naranggi sara sarkv nio?
udu tumen jalan duleke seme sinde inu uculembi

こんなにも君を愛しているのを、君はいったい知っているのか、知らないのか?
夜毎君に向けて歌う
こんなにも君を想っているのを、
君はいったい知っているのか、知らないのか?
幾万もの時代が過ぎ去ろうとも君へと歌う

udu tumen jalan duleke seme sinde inu uculembi

幾万もの時代が過ぎ去ろうとも君へと歌う

 

◯語彙解釈
sunggari ula 松花江:
満洲語歌詞の「sunggari ula」は「スンガリ・ウラ」と訳し、漢語歌詞の「松花江」は「松花江」と訳した。

hairatai:
hairakan(何とも惜しむべき)、hairambi(惜しむ、愛でる、いつくしむ)からの造語か?「名残惜しい」といった意味と思われる。

hairatai onggome muterakv:
「名残り惜しく忘れられない」という意味に解し、「いつまでも忘れられない」と意訳した。

ere jalan be jurcerakv:
ere jalan は直訳すると「この世代」。恐らく漢語の「這輩子」(今生、この一生)のような意味と思われる。ここでは漢語歌詞との整合性を考え、「一生あきらめない」と意訳した。

sunggari ula deri dekdere biya i adali:
直訳すると「スンガリ・ウラを通して浮かび出る月のように」。deri(~を経て、~を通して)は沿格助詞で、ある行動がある場所を通過・経由して行われる意を表す。現代満洲語・シベ語では奪格助詞(~から)として使われる場合が多い。ここでは漢語歌詞との整合性から前者の意と解釈し、「スンガリ・ウラに浮かぶ月のように」と訳した。

jilgan :
声、音。歌声を指していると考えられるので「歌声」と訳した。

yar seme:
yar seme は満洲語のオノマトペ。『御製増訂清文鑑』巻ニ、地部、地輿類第十一では「水細流貌(水が細長く流れる様)」、同第十四巻、人部五、言論類第四では「聯貫(立て続けに))」とある。ここでは「流れるように」と訳した。

mini dolo simbe ele kidure jiye:
直訳すると「僕の心中は君をますます想うのだ」。ここでは「僕の心の中で君への想いがつのるんだ」と意訳した。

sini dere acahabi:
直訳すると「君の顔に会えたのだ」。ここでは「君の顔を見れたんだ」と意訳。

naranggi:
結局、いったい、そもそも。漢語の「到底」に似た意味。

sara sarkv nio?:
直訳すると「知っている、知らないのか?」。漢語の「知道不知道?」に似た構文。
ここでは満洲語の語感を活かすため「知っているのか、知らないのか?」と訳した。naranggi sara sarkv nio?は漢語でいえば「到底知道不知道?」に近いかもしれない。

udu …… seme:
たとえ……であっても。

tumen jalan:
万代、万の時代。今回は「幾万もの時代」と意訳した。「千秋万代」、「千代に八千代に」といったような意味だろう。

inu:
も、~もまた、~でも、なおも。

カテゴリー: 満洲語 | 4件のコメント

春節前の買い出し 办年货

 暦では今日は大寒
 本当に寒い!-14℃!
 大連はこの冬一番の寒さ。
 しかも風が吹いているので体感温度はもっと寒い!

凍りついた窓
 今朝、窓の内側が凍りついていましたw

野菜売り

 春節用の食料品や品物を買いに近所の市場へ。
 めっちゃ庶民的です。
 野菜の凍結防止のため、上から布団を掛けています。

凍った魚

 魚。
 完全に凍りついていました。冷凍庫いらず!

野菜、肉、魚 

 野菜、肉、魚を大量に買い込んで帰宅。

カテゴリー: 日記 | 4件のコメント

もうすぐ春節

春節用デコレーション

 春節用デコレーション売り場。
 大連市馬欄広場の市場にて。
 2011.1.17撮影。

 そして、チー。
チー

 中国のケンタッキーフライドチキンのキャンペーンに『チーズスイートホーム』(中国語タイトルは『甜甜私房猫』)のチーが登場。景品でチーのキーホルダーがもらえるらしい。チーは中国語では「小奇(シャオチー)」。「小」はこの場合は「~ちゃん」といったような意味。
 大連
西安路バス停にて。2011.1.17撮影。

チーその2

 この間近所のケンタッキーフライドチキンで購入したバーガーの箱。
 (食べた後、箱だけ持って帰ってきた)
 自宅にて。2011.1.11撮影。

春節露店街(西安路)

 春節露店街(西安路)
 対聯、掛け軸などを販売。古本市も。
 2011.1.17撮影。

M3 & M5スチュアート軽戦車

 古本市にて。M3 & M5スチュアート軽戦車。
 オスプレイ・ミリタリー・シリーズの中国語版らしい。
   状態がよく、同シリーズの本がまとまった数で売られているところをみると、出版社から流れた新古本か?
 2011.1.17撮影。

屋台村
 西安路電子城前の屋台村。
 ドラ焼き屋もありました。ドラえもんの主題歌がエンドレスでリピート再生。
 「あんなこといいな~できたらいいな♪」が延々と流れていた。
 2011.1.17撮影。

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ツェリン・オーセル『殺劫(シャーチェ)――チベットの文化大革命』

ツェリン・オーセル著、藤野彰/劉燕子訳『殺劫(シャーチェ)――チベットの文化大革命』集広舎、2009年10月

 以下は昨年日本で読んでから書いた読書メモ。ずっとPCに保存したまま忘れていたが、加筆の上アップすることにした。

 本書は、チベット人の著者ツェリン・オーセル氏の父であるツェリン・ドルジェ氏が撮影した文化大革命(文革)期間中のチベットの貴重な写真および著者による関係者へのインタビューにより、これまで外部にほとんど知られることのなかったチベットでの文化大革命の様相をつづったものだ。

 タイトルの「殺劫」には深い意味がある。チベットが中国により「解放」されてから、「革命」はチベット語の「新しい」と「取り替える」という二つの言葉を組み合わせた「サルジェ」というチベット語に翻訳された。そして「文化」はチベット語で「リンネー」という。文化大革命はチベット語で「リンネー・サルジェ」、これは漢語の「人類殺劫 renlei shajie」と似た発音になる。

 すなわち、このタイトルには、「文化大革命」はチベット人にとっての「殺劫」でしかなかったという意味が込められている。

 本書は全五章からなっている。
 第一章「『古いチベット』を破壊せよ――文化大革命の衝撃」では、中国内地からの紅衛兵運動の波及、ジョカン寺に代表される仏教史跡・文物への破壊、「牛鬼蛇神」として吊し上げられた者たちの運命、チベット人の人名や地名の改名強制について、当時の写真と著者による関係者へのインタビューによって活写している。

 個人的に興味深かったのは、当時のチベット語には「牛鬼蛇神」なる概念がなく、無理やりチベット語に訳してみたものの、スローガンを叫ぶときは結局漢語(中国語)で「牛鬼蛇神」と叫んでいたこと、居民委員会が運動の組織化に大きな役割を果たしていたことだ。文革時代を知る者にとって、居民委員会は今でも恐怖の対象であるという。
 外部から持ち込まれた「階級闘争」によって、人倫を破壊され、宗教を破壊され、チベット人同士が憎しみ合い、チベット人たちの人間性が崩壊していく様は痛ましい。

 当時、先頭に立って寺院を打ち壊し、僧侶たちを「牛鬼蛇神」として吊し上げた「積極分子」たちのその後の運命も興味深い。ある者は文革をテコにのし上がり、ある者は仏教へと回帰し、かつて寺院を破壊した情熱さながらに熱烈な仏教信者となる。まさに人生百態、人生いろいろである。


 第二章「造反者の内戦――『仲の良し悪しは派閥で決まる』」では、チベット文革を主導した二大造反派が武器を取って争った様相と顛末が描かれている。彼らはチベットに駐留する軍の武器庫から武器を奪い、軍もこれを放任していたという。

 また、前章でも触れているが、当時の「積極分子」には、風見鶏のように巧みに態度を変え、その後もチベット自治区の要職にあった者も多かったという。著者は、このことはチベットにおいて文革が未だ清算されていないことと無関係ではないと指摘している。この個所には大いに驚いた。なぜなら、中国内地では、文革当時の「積極分子」の多くは文革後に左遷・解任の標的となっているからだ。


 第三章「『雪の国』の龍――解放軍とチベット」では、解放軍によるチベットへの軍事管制、軍隊内部の闘争、チベット人の民兵化、文革当時の解放軍軍人殺害事件について描いている。

 さらには防空壕建設によるポタラ宮への破壊にも言及している。当時、国際的孤立を深めていた中国は、核戦争に備え、全国で防空壕を盛んに建設しており、なんとポタラ宮の下の山にも爆薬で穴を空けて防空壕を掘っていたらしい。その過程でポタラ宮の建築にも大きなダメージが及んだとのことである。


 第四章「毛沢東の新チベット――『革命』すなわち『殺劫』」では、毛沢東が仏に代わって、チベットの新たな「神」として祀り上げられていく過程が語られる。


 第五章「エピローグ――二〇年の輪廻」では、文革後のチベットの歩みについて記されている。


 巻末には、藤野彰氏による解説「チベットの文化大革命――現在を照射する歴史の闇」が加えられ、チベットの文化大革命、チベット問題の現状について分かりやすく解説されている。チベット問題や文化大革命に詳しくない方には、先にこの解説を読んでから本文を読むことを勧めたい。注と参考文献リストも充実している。


 文化大革命については、中国および世界各国ですでに多くの論著や史料が出版されている。だが、チベットなど少数民族地区の文革はその中からすっぽり抜け落ちている。
 これは著者の夫である王力雄氏がいみじくも指摘するように、「国際社会に対して、文革は共産党の一つの不都合な出来事であり、チベットはもう一つの不都合な問題である。したがって、チベット文革は二重のタブーとなり、なおさら触れてはならないものとなっている」からだ(序文、p.8)。それだけに本書の価値は高い。

 写真愛好家だった著者の父が撮影した写真がすさまじい迫力で読者に迫ってくるし、文体にも翻訳特有のぎこちなさがなく、ページをめくるたびにグイグイ引きこまれ、わずか2、3時間で一気に読んでしまった。

 そして、著者が、決して漢人への民族的憎悪を煽らず、あくまで筆致を抑えた冷静な記述に努めていることには敬服せざるを得ない。

カテゴリー: 書評, 民族問題 | 2件のコメント